初めて「死」を意識したときの話

ラッパーの死

なぜこれを書いたのか、ということだ。

このテーマに関して下書きを書いていたのは、

もう2年前のことだ。

9月に入ったばかりの土曜日の秋葉原、

仕事の休憩時間にカフェに入り、

コーヒーを飲みながらツイッターを見ていた。

タイムラインに突然、

マックミラーの訃報が現れた。

びっくりした。

え、嘘だろ、うそだろ!

って思って速攻でニュースを確認した。

事実だった。

わああーとなって、

一通りぐるぐるして、

落ち着いてからPCを開いた。

残りの休憩時間で

今のこの気持ちを綴っておこうと思った。

この時、少し前に後輩と六本木に遊びに行った夜、

アヴィーチの訃報に衝撃を受けたばかりだった。

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それから間も無く、

XXXTENTACIONの事件で、

こんなことってあるのか…と思った矢先だ。

ここ最近ではJuice WRLDや

ポップ・スモークも亡くなった。

音楽業界にかかわらず、

ここ数年は色々な人が亡くなっている。

ビッグな人物であればあるほど、

才能に恵まれた人物であればあるほど、

何かのジョークだろうとか、

デマじゃないかと思ってしまうのは、

その人物が、もう人を超越した存在に

なっているからかもしれない。

全ての人間は皆必ず、

いつかは死ぬもんである。

しかし社会で生きていると、

それがとても不思議なことのように感じる。

死は平等でも、生き方は平等じゃない。

切ないことだ。

ビビッドな出会い

ところで皆さんは、

初めて「死」を意識したとき

のことを覚えているだろうか。

皆さんの中にはもしかすると、

自身が死にかけた時に

悟った人もいるかもしれないし、

あるいは小さい頃、

眠れぬ夜にベッドの中で

人はなぜ生きるのか…?

という迷宮がコンニチハしたとき、

自分の死について、いつか訪れるものだと

気づいたという人もいるかもしれない。

私はものすごく明確に覚えている。

はっきり記憶がある。

なんというか、

あまりにも突然だったからだ。

3歳から4歳に差し掛かるぐらいのとき、

例の、いっぱい虫が出るあの平家に住んでいた時だ。

初めて「呆然」とした時の話参照※)

父と姉2人とお風呂に入っていた。

(その時していた話とすごく関連性が

あったような気がして、

ずっと思い出そうとしているのだが、

なぜか全く思い出せない。)

湯船に浸かってから洗い場に移り、

体を洗い始めてすぐだった。

なぜか突然私は、

「私もいつかは死ぬんだ」

ということを強烈に悟ったのである。

私は、

(いつか死ぬの?!

嫌だあああ!!)

と猛烈に思った。

そして、号泣した。

まだわりと生まれたばっかりのくせに

死を認識し始めるなんて、

今考えるとませたガキである。

終活しながら落ち込むじじいのようである。

私の記憶はそこで終わっている。

非常にビビッドな感覚であった。

鮮烈だった。

多分まだ、物心もクソもない時代だった。

お風呂という場所は、時として

人の心を無防備にする場所だ。

いじめのカミングアウトの時もそうだったけど、

ガードが緩むのだ。

心の皮が、玉ねぎのように、

気づいたらベリベリとめくられているのだ。

情報漏洩のリスクを考えると、

裸の付き合いの相手は選ぶべきかもしれない。

死ぬことって

私は今までわりと人が死ぬことについて

色々と書いてきたのだが、

(以下色々と書いているよ⤵️)

昔の男が亡くなった

おばあちゃんと言葉の話

じいちゃんが1回死んで生き返った話

人が死んで、そのときに残るものは

「思い出」「人柄」「死に方」

の3つのみ、と言っても過言ではないと

私は思っている。

特に「死に方」については、

残った人間達に真っ先に口にされるトピックとなる。

みんな生きているうちは

死ぬことより「どう生きるか」が大事

と言っているが、

思い浮かべてほしい、

みなさんの曽祖父や祖父祖母の世代、

(あまつさえいる戦国武将でさえ)

亡くなった人の事を思い浮かべる時、

「どう死んだか」は欠かせないキーワード

になってはいないか?

戦争などで仲間や家族を亡くした世代は

もう既に終戦から75年経ち、

多くは亡くなっている。

今、皆さんは死とは遠い世界で生きている。

皆さんのいる日本で、今身近に死を

バンバン目撃するのは、

医療や警察関係者、特殊清掃などの

専門的な仕事についている人間ぐらいで、

皆さんが最も死を意識するのはおそらく、

「同級生や身近な人物の死」か、

「人身事故」

「有名人の死」

のどれかぐらいであろう。

都内でも中央線や、止まりやすい線の

ユーザーは日常的に人身事故による

影響を受けて生活しているはずだ。

ただ、自分が死ぬことについて考えることは

皆あまりしようとしていないのではないか。

バビロン

最近見たアニメで、

『バビロン』というAmazonプライムで

配信しているものがある。

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ざっくりしたテーマは、

人が生きることと死ぬこと、

そして「死ぬ権利」についてのもので、

生き死にと政治を絡めた重い展開で、

見る人間の心に、強制的に

「正解と不正解」

「正義と悪」

の自己再定義をさせるようなアニメである。

面白い・面白くないの判断は皆さんに任せるが、

一気に見れてしまうぐらいの勢いはある。

私のこのアニメの解釈は必要ないかと思うが、

個人的な感想としては大きなものがあって、

「死ぬこと」について、

今まで我々が社会的に思い込まされてきた

イメージというものがあり、

「みんなで考える死」というものと、

「いざ自分が直面する死」はかけ離れていて、

普段どれだけ民主的に社会をコントロール

していたって、いざ自分が死に直面した途端、

人は皆皆弱くなってしまうものなんですよ、

という痛烈な皮肉を私は感じた。

「死ぬこと」を考えることは、

ある意味とても効率的というか、

逆算して「現在」を考えることができる、

便利なものだと私は考えている。

終活をするご老人や、余命宣告された人達が

今のうちにやりたい事や、

今この時間を無駄にしないで生きようとする

のは「終わり」がしっかりと見えているからだ。

献血しませんか

さて、人は皆いずれかは死ぬ。

科学の力で不老不死になったりする世の中に

なろうとも、

何もしなければ時間の流れに沿って

順当に皆等しく死を迎える。

サプライズは大体皆が喜ぶものであるが、

悪いサプライズは皆嫌いなものだ。

コロナウイルスで死が身近に

なってきているためか、

皆戦々恐々としているが、

恐怖で死を意識するよりも、

もっと身近に寄り添う形で

意識できないものなのか?

と考えてふと思い出したのである。

最近献血したときに考えたのだが、

人間は全血液量の20%を失うと失血死する。

私の場合は大体1L以上の血液を抜くと

かなり死に近づく。献血しながら、

(右腕から流れていくこの血は

400mlで終わるけど、これって

このままノンストップに抜血したら

ナチュラルに死ねるなあ…)

とふと思ったのである。

http://www.jrc.or.jp/donation/about/terms/

☝️献血基準に飛べるよ

死を意識したときに、全ての人間が

恐怖以外で考えるのは、

「やり残したこと」だ。

今死ぬとしたら何が心残りになるかなあ…

と考えて、

正直あまり心残りになることが

浮かばないことに気づいた。

あら、私死にたいのかしら?と考えて、

死にたいわけじゃないけど、

生きたいわけでもないなあ、

という事実にたどり着いたのである。

さて、それじゃあ「生きる」とは何だ…?

と考え始め、次のテーマに続く!!

(書くまで死ねない)

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