恋愛の話①~情は厄介?

ド直球

逆になんで今までこのド直球のネタを

やらんかっただか…?

と不思議になったので、

(昔の男が死んだ話はしたけど)

おもむろにちょっとこれから恋愛関係の話を

シリーズとして書いてみようかと思うわよ。

今回は”情”についてである。

私の周りで、そういえば昔から

このテーマってずーっと身近だったにも関わらず、

意識的に掘り下げることはしなかったのは、

この年になるまで

”情”というものを明確に定義づけできなかった

からじゃないか、と思う。

大人になってからの方がなにかと

過去を振り返るにしても

ああ、こうだったんだなあと

自分に対しても相手に対しても

思えたりするもんである。

あと恋愛関係の話って、

自分の過去とか身近な人のプライベートを

掘り下げて、再体験しないといけない

というところがあって、

それがメンタルをやられて嫌なのであるが、

そういうテーマほど書き終えてから

そこそこ面白いものができていたりするので、

ファーック、恐れずにやっていくわよ。

情とは

20年近く前、『だめんず・うぉ〜か〜』という

漫画が流行ったことがある。

倉田真由美さんがルポ漫画形式で

連載していたもので、

当時角川から発行されていた

雑誌の『Men’s Walker』をもじった形で、

今となっては一般的な

「だめんず」というジャンルの、

主にはヒモやDV男や虚言癖のある男性など

に対する呼び方を定着させたものだ。

「情とはなにか」を考えたとき、

そこには2つ種類があると思うのだが、

まず女側からの情としての

1種類目を手っ取り早く説明するには、

このだめんずがいい役割を果たす。

1つ目の情とは、

「この人には自分がいないとダメ」と思わせる、

こちら側の世話欲を喚起するものである、

と定義する考え方である。

恐らくは、捨て猫を拾うときの感覚や、

赤ん坊の世話を任された時の心境に近いものがある。

1つだけ違うのは、

捨て猫や赤ん坊は現実問題、

世話をしてあげない状態で

放置してしまったら、

普通に死んでしまうので、あくまで

命の責任も伴うがゆえの”世話欲の喚起”なのであるが、

(ぺットでも赤ん坊でも、

 小さいものは他者に世話をさせるために

 顔の配置やフォルムがかわいく

 設計されていて、

 更に我々大人のDNAには

 「小さいものはかわいい(小さいものを育てよ)」

 という本能がインプットされている。)

※参照「かわいい」の種類の話

だめんずに対する”情”は、少し違ってくる。

彼らは子供ではなく、普通に独り立ちしている

成人男性であり、世話欲を喚起された女性たちが

放っておいたところで特に問題はない。

命にもかかわらない。

本来自分で何とかできる立派な大人だ。

”情”その①とは、

一見すると、世話を欲するだめんずたちの

独り立ちできない半人前な欠陥から

生まれていると見せかけて、

実は、世話をする女性自身が母性の確認や

自尊心を満たすために世話をしている、

という側面が大きい。

母性本能と自尊心のフュージョンなのである。

この心理は本家で紹介されているので、

気になったら読んでみてくらはい。

さて、続いて”情”その②である。

これはやっかいなやつだ。

端的に言うと、

「年月をかけて蓄積された歴史」

というものである。

人の家に遊びに行ったときに、

水場周りを見たりするとよく目にしないだろうか、

「何十年物の頑固な汚れ」を。

このパターンの情はこれと同じ性質のものだ。

その汚れは簡単には落ちない。

超強力な洗剤を使ってしても全然落ちない。

男性側の言う”情”は、

しばしばこの形に当てはまることが多い。

しかし、中身はアホっぽいというか、

その時間の内訳をみてみると、

大した会話はしていないのに、

「ただ一緒に食事をして来た時間」とか

「ただ一緒に眠っていた時間」とか、

「ただ一緒にTVを見ていた時間」とか、

そんなもんだったりする。

最近思うのだが、

男性は「一緒に過ごすことそのもの」に

既に意味があるとか、

その行動自体が気持ちを表している、

という風に考えているのではないだろうか?

女性はこの逆で、

一緒にいるのにただダラダラした時間を

過ごすということはむしろ「意味がない」し、

「適当に扱われている」と感じる。

要は、女性サイドは一緒に過ごす時間の重要度は

長さ<密度

なのである。

男性は、ある程度

結婚とか彼女とか同棲とかの

枠を決めてしまうと、

もうそれが=自分の愛情ですよ、

という意志表示という風に考える傾向に

あると思うのである。

ぶちこわし屋ニューカマー

さて、そんな頑固な水垢のような

長年の蓄積から生まれた男性サイドの「情」も、

あるものを使うと一発でぶち壊すことが

可能なことをみなさんはご存知か。

それは「新しい刺激」だ。

惰性でも何でも、ひとりの人間が

長年続けていたことをある時

きっぱりと止めるのは、

「やめようと決意する時」では決してない。

悲しいかな、

「続けていたことを中断してでも

新たにやり始めたいなにかを見つけてしまった時」

これなのである。

わかりやすいのは、

若い女と浮気やら不倫やらして、結局

嫁子供のところに戻らず浮気相手を選ぶという

パターンである。

結婚するよりも離婚する方がはるかに大変だと聞く。

確かにただの恋愛ですら、付き合うときより

別れる時の方が精神的負担を強いられる。

結婚には自然消滅というものがなく、

書類は交わさなあかんことに伴い

なにかしらお互い区切りや思い切りが必要だ。

離婚するためのエネルギーを使うめんどくささを

打ち消すのは「新しい刺激(=新しい女)」

であることが多いのはまあそりゃそうだわな、

と男なら誰でも納得できるであろう。

逆に、女のマインドの中には

「この関係意味あるのかな?」

「この状態続けててためになってる?」

という自問自答機能が自動でついているので、

平和に続いているように見えた

安定的な関係でも、

日々の小さい違和感の蓄積や、

過去の傷をやはり忘れられないから

別れましょうと切り出したりする。

男性側からしてみたら

「新しい何か」という特別なものもないのに

別れようとするなんてなぜ?!

と不可思議に思える理由だろう。

男の方が単純とかバカとかシンプルと言われ、

女はめんどくさい、ややこしいと言われる所以の

1つだろうな、これも。

4天王

ここでちょっと、より定義的な話をしたいのだが、

そもそも恋愛という関係を語る上で、

出てくる要素が4つあると私は考えている。

1 恋

2 愛

3 情

4 執着

この4つである。

は基本的に風邪のようなもので、

短期間で直る場合もあるし、

連続して同じ人に風邪をひき続ける猛者もいる。

性欲との結びつきが強いのはこの

「恋」の部分である。

社会的な心の動きというよりかは、

どちらかと言えば本能に基づくものである。

強火で中華鍋、というイメージとでもいおうか。

は、かなり普遍的なものであり、

また不変なものである。

男女というよりかは、

社会的な営みの根源に関わるものだ。

人間が生まれて最初に受ける愛も、

最後に受ける愛も、

家族愛であることが多いだろう。

自分が大事に思う存在に元気でいてほしい、

幸せでいてほしいと思うのが

愛の根源である。

弱火で何日間も煮込む、みたいなイメージである。

恋も愛も、色味が強いものだ。

恐らく恋をしている時の感情や、

誰かを愛している時の心情を

言葉や色や、いろんなもので表現してください、

と言われれば、人は容易にやってのけるだろう。

恋や愛がテーマの芸術作品は山ほどあるし、

もはや芸術そのものが恋愛なしには

構成できないと言っていいほど

人間の感情部分に関わっている。

キラキラサイドの陽キャがこの2つである。

これらに対して、執着

こいつらは感情の色味というよりかは、

感情を超えた深層心理にざっくり刺さった芯や、

自己の意図したところとは関係なく生まれてくる念や

想いの泉みたいなもんだ。

ダークサイドの陰キャである。

また残念なことに、どうも

負の感情と結びついていることが多い。

靴底にくっついたガムみたいな、

不愉快な粘着性、

何回対策してもまた湧いて出る害虫のような

しぶとさを持っている。

バグの必要性

さて、ここまで書いて完全に

情と執着は悪者扱いされているが、

もちろんこいつらは完全なる悪で、

排除するべきものかというと、

それは決してそんなことはない。

ここまでで語ってきたのは

恋愛とか社会性を構成するパートの部分

「恋」と「愛」、そして

これらとは相対する人間の根源の不可思議な部分の

「執着」と「情」の部分であるが、

恋愛に関係する「感情」に関しては、

全てがあくまで子孫繁栄のためにつけられた

オプションでしかない。

生まれた瞬間に恋をしている赤ん坊や、

オギャーと言いながら愛を感じている幼児は

いるだろうか。

はたまた老衰で生き絶えるその瞬間まで

熱烈に恋をしている老婆はいるだろうか。

愛を感じて死ぬご老人はいるかもしれないな。

というかそんなお年寄りばかりでいてほしいのが

本当のところであるが、

実際じいさんばあさんが死ぬ間際まで

金に執着していたとか、

何か気がかりなことや人のことを口にしながら

生き絶えたなんて話の方が多く聞かないだろうか。

そして赤ん坊は自我が生まれる前では生きること=生

そのものに執着している。

だから腹が減ったら命の危機で大泣きするのである。

つまり、恋愛というのは子孫繁栄のために

つけられた一過性のオプションという面が大きいが、

執着というのは人間の”生”を支える根源に大きく

関わっている、ということだ。

そして情というのは、社会性を持つようになった

人間に与えられた、ある種の「バグ」だ。

『茶運び人形の妙』を知っているだろうか。

江戸時代、からくり仕掛けで茶を運んでくる人形を

作るときに、人形師は茶を運ぶ何回かに1回、

あえて人形を転ばせてみせるというバグを仕込んだ

という話がある。

日本文化の「ドジっ子萌え」のある意味

めちゃくちゃわかりやすい例えである。

人間らしさとは何かを考えたとき、

そこには「不完全さ」が大きなテーマとして

存在している。

インパーフェクトな部分は成功の中に失敗を

混ぜることもそうだが、

善や陽の羅列の中に少しだけ悪や陰の部分を

混ぜることで初めて「人間くささ」が生まれる。

情や執着がない人生なんて、

悪者が出てこず永遠にただの

陽キャのパーティーで終わる謎の映画なのである。

お分かりいただけただろうか

さて、重要性をしっかりと布教したところで、

それでもやっぱり毒の部分は否めないので

上手に付き合っていくことが

大人になるためにはどうやら必要みたいなのよ。

私も格闘中だ。

あなたはどうやって

付き合っていくのかしら。

次に会えたら教えてくださいな。

終わり!!

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