「寂しさ」の本質とは

寂しさあるある

今これを読んでいるあなたが女性ならば特に、

一度は「さみしい……」

と思ったことがあるんじゃなかろうか。

夜が更けるにつれて、

そして仕事の帰り道、

1人で夕食を済ませた後、

友達と別れた直後、

そんな時に

どうしようもなくなった感情、

うまく説明のつかない悲しみがドバッと溢れ出し、

「さみしい」「むなしい」という理由で

号泣したことはないだろうか。

やばい、あるな…という女子、

ちょっと覚悟して読んでね。

エセの勢力拡大

巷で「さみしい」といえば、

よく浮気した女が、

「だって!!寂しかったんだもん!!」

「彼と会えなくて、寂しくて…」

はたまた、すぐヤラせるレッテルがつく女が

「寂しくて…」

「なんか誰でもいいからそばにいて欲しくて…」

と言ってホイホイ男と寝るのをチラッと目にするが、

こう言った場合の寂しさは、本当のさみしさではない。

『エセ寂しさ』である。

この『エセ寂しさ』の本質は一体何なのか、

みなさんは知っているだろうか?

それはまごうことなき、

『暇』『性欲』

ただそれだけである。

例えば同じ女性でも、

小さい子供を何人も育てていて、

毎日が時間との戦いの嵐のような状態の母親が、

このエセ寂しい病にかかることはまずないだろう。

逆に男性で、勝負案件に挑んだり、

大きいプロジェクトを任されて

各所を飛び回っている男が

「俺、いま、寂しい…」

とメソメソするのが想像できるだろうか?

まあまず無えな、とは思わないか?

もしそうだったら彼女のあなたに

ちゃんとラインを返すだろう?笑

彼らのような人たちの気持ちはただ1つ、

「そんな暇あったら寝かせてくれ!」

これである。

この人たちは「忙しくて」「余裕がない」人たちだ。

マジで毎日寝る暇ないぐらい本当に忙しい、

もしくは自分のことを考える余裕すらないのである。

こういう忙しい人というのは、

仕事や、やるべきことに忙殺されたり、

案件や締め切りに追われて常日頃、

「暇になりてえ!!!」

「遊びてええええ」

「寝てえ…」

と思っている。

そんな人たちが一旦暇を手に入れようもんなら、

寂しさを感じるなんてもったいないことはせず、

すかさず体を休めたり、

ゆっくりする時間を楽しんだり、

よそに遊びにいったりする。

そして気づくとまた忙しい日々に戻るので、

こういう人たちには、この『エセ寂しさ』と言う名の

「暇」がつけ入る隙がないのである。

さて、ここまで書くと、

今あなたが感じている「寂しさ」は、

全部アホの甘えのように思えてしまうかもしれないが、

そんなことはない。

ただ、本当の「寂しさ」は

甘えと共には存在するものではない。

後ほど詳しく説明する。

自分、不器用なんで

ところで、ここで疑ってほしいのだが、あなたは

「オフを楽しむのが下手くそ」な人間、

もしくは、

「生きがいを持たない」人間ではないか?

ということだ。

かく言う私もその中の1人だ。

1人の時間を充実させたり、

誰かと予定を合わせて出かける、

ということにもエネルギーを使うので、

時間ができると、

オンとオフのスイッチ以前の段階に戻ってしまう。

オフで家でダラダラする、

とかよりも更に前の段階だ。

例えるならば、

電源コードを引き抜いた「無」の状態である。

「無」の状態だと体は休まるので、

身体は健康になっていき、時間が経ち、

回復してふと気づくと、

健康な体だけ抱えて、いつの間にか

『エセ寂しさ』と大親友の

「夜」の時間になっているのである。

夜にできる楽しいことの多くが

酒、感情的なもの、もしくはセックスがらみだ。

下半身に目を向けよう

日本人の女は特にそうだが、

自分の「性欲」に対して無意識な人間が多すぎる。

そしてまんまと『エセ寂しさ』の罠にハマる。

女にも性欲はある。

「あの先輩かっこいい」「ドキドキする」「壁ドン」

「そばにいてくれる」「キュンキュンする」

は神聖なる恋のたまもののように、

どこの媒体も表現しているが、

男性にとっての

「あの子可愛い」「すげーエロい」「やりたい」

「優しい」「心臓バクバクする」   

と同等のものであると気づいて欲しい。

日本人の男は、年齢を経ると特に、

相手を好きだという気持ちと

下半身の欲望を切り離す傾向にある。

逆に、日本人の女は両者が同一、

むしろ自分に性欲があることすら認めたがらない。

若くて時間が有り余っている、

誰かにそばにいて欲しい、

彼氏は構ってくれない、

友達の距離感じゃ足りない、

そんな「暇」が無意識下に眠っている性欲と

結びつくとあら不思議、

「寂しい」という大義名分がついた

セックスが立派に生まれるのである。

対して基本的にオフを楽しむのが

メチャクチャうまい女は、割とさらっと

寂しさをこなせる事が多い。

こういう女の中にはメンヘラ気質の女は、

サイコパスを除いてそんなに多くは存在しない。

彼女たちは昼に活動して、

充実感を得たら夜はぐっすり寝られるからである。

まあクソ単純な話である。

そして、

生きがいがある人間、仕事でも趣味でも

金儲けでもなんでもいい、

自分が没頭できる何かを

持っている人間は、「暇」を持たない。

彼らは時間が有限だと知っていて、

今やるべき事ややりたいことの予定が詰まっていて、

そういった時間あえて設けた時間以外の

NO TITLEの無意味な時間を持つことを嫌う。

彼らにとっては「暇」ではなく

「スキマ時間」という認識だったりする。

本当の寂しさ

ここで1つ、考えてみて欲しいのだが、

「本当の寂しさ」とは何だろうか?という事だ。

もし、あなたの寂しさが

「誰かと一緒にいてまぎれる」

「何かをしていてまぎれる」

なら、それは本当の「寂しさ」ではない。

それは『エセ寂しさ』だ。

本当の寂しさは、

どんな楽しいことをしても、

どこにいても、

どんな素敵な時間を過ごしていても、

どんなに忙しくても、

どんなに時間が余っていても、

結婚していても、

シングルでも、

誰と一緒にいても、

1人でいても、

どんなにお金持ちでも、

貧乏でも、

「自分は孤独だ」と感じることだ。

逆に、はたから見てどんなに孤独な状況に見えても、

本人に誰かと繋がっている感覚があったり、

自分の役目に没頭していたり、

むしろ生き死にの境界線上にいたり、

1人を楽しむ心があれば、

それは「寂しくない」のである。

原因は

もしあなたが若くて、

何をしてもこの謎の「寂しさ」

に付きまとわれている状態なら、

一度自分に「自己肯定感」、そして

「自己愛」があるか、考えてみて欲しい。

私は中学、高校時代、大学時代、今に至るまで、

暇になるごとに謎の「寂しさ」を感じて生きてきた。

中高は勉強するという「やること」があったので、

このモヤモヤとした感情が「寂しさ」

だとは分からなかったが、大学になって初めて

「寂しさ」だとわかった。

1人でいる時の心、みんなといる時の心、

どちらを見ても最後には自分は孤独だと感じ、

誰にも理解されない自分を必死で正当化するために、

逆に自分は唯一無二である、

かっこいいんだという半ば

厨二病的な意識を無理やり持ちつつも、

どこかで自分の理解者を求めている

という逆説の精神状態が出来上がった。

もともと自己愛があれば、誰かに理解を求める必要や、

無理やり自己肯定をする必要もない。

あなたがもしそうなら、原因は親との関係や、

幼少期に体験した事が関わっているかもしれない。

育った環境や、もともとのメンタリティや知能など、

他にも色々考えられる。

同じ状態でも過程は千差万別だ。

そして私のように自己愛がない人間は、

他者からの肯定を自尊心回復に使う事が多い。

彼らは

「自分の居場所を探す」ところからスタートする。

逆に自己愛がある人間は、

居場所を探す必要がないので

「自分のやりたいことをやる」

ところからスタートする。

ニーズに応えることが生きがいになって、

それが死ぬまでうまく回れば、

それは幸せな人生かもしれないが、

今の世の中はあまりそういう

一本気な生き方ができない。

「多様性のある社会」

「変化が多い時代」であるがゆえだ。

ちなみにご老人の「寂しさ」については、

私が知る範囲をはるかに

超えたものであるので多くは書けない。

ただ、彼らは年を取るごとに身内や

大事な人を1人、また1人と失ったり、

緩やかな死の恐怖と戦ったり、

自己肯定や生きがいなどは既にとっくに経て、

本当に希望のない

「孤独」を感じているのかもしれない。

ここまで書いて、

寂しさの本質は割と絶望的な場所にあるかも、

という結論が出てしまって

結構自分でもへこんでいるが、

自分の状態がどうなのかわかれば、

今まだご老人ではない、

若いあなたは行動する時間がある。

一緒に孤独と戦おうと、

それしか言えない。だけど一緒に戦おう。

おわり!!

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コメント

  1. 終末 より:

    そもそも生の本質が「苦痛を短中期で回避してたら生き残ってしまった」が本質ではないかと思い始めてるので、最終的にそこに行き着くような問題は全部希望がないかもと思います

    死を強く恐れ拒絶するのも「自身の生誕が無意味で無価値な物であった事を受け入れる」と言う苦痛を回避する結果でしかないのではないかと思うんですよね…