母の話

鬼門

母は、私の鬼門のような存在である。

母のことを語るとき、

母の父、

要は私の祖父のことを語らねばならない。

大変面倒である。

私の祖父は田舎の農家の長男として生まれ、

小さい頃に実母を亡くした。

その後やってきた後妻さんとは

いい関係を築けないまま、

長男として弟妹たちを支えなければ、

という使命感と、

母親に甘えられなかったという不遇な環境が、

祖父の歪んだ性格を育てた。

年老いた今でもプライドは人一倍高く、

マウンティングをすることで

快感を得るところは変わっていない。

ただ、あの時代にしては偉いもので、

弟とそろって立命館大に入り、

地元の県庁に就職し、

公務員としてダムを作ったりしていた。

祖父の学歴コンプレックスは

ここまででバッチバチに完成された。

社会人としては、

団塊の世代としてバリバリ働いた、

当時では珍しい大学卒のキャリア組の人であった。

祖母とは見合い結婚で、母が生まれたが、

彼らには母以外の子供はできなかった。

夫婦仲は良くなかった。

母は一人っ子だった。

母は、小さい頃から厳しくしつけられた。

祖父はいわゆる

「昭和の頑固オヤジ」的な人ではあるが、

あっけらかんとしたところはない。

今でいう完全なる

モラルハラスメントな人である。

ちなみに政治思想はもちろん右寄りだ。

母は自分の日記を読まれたり、

プライベートな部分を監視されて、

思春期は特に嫌な思いをして育ったという。

昔私が小さい頃、

寝る前に何度か母の自伝的な話を

聞かされたことがある。

かなり鮮明に覚えている。

高校を卒業し、

都市の大学に入り親元を離れた母であるが、

その頃は

「ちっとも自分に自信がなかった」から、

「恋愛によって自尊心を埋めていた」

と語った。

というか保育園時代に聞かされて

これ覚えてた私の因果よ。笑

その後母はいい出会いに恵まれ、

(姉の父と出会った)

大学時代に姉二人を身ごもり、

できちゃった結婚をした。

今とは時代が違う上に

あの性格の祖父が怒り狂ったのは想像に難くない。

ただ、旦那さんは非常に

明るくていい人だったらしい。

母は今でも旦那さんの話をする。

その時はとっても幸せだったんだろうなと思う。

しかし、母が姉を産んですぐ、

旦那さんにガンが見つかった。

胃ガンだった。進行はとても早かった。

新婚早々、産んで早々、

母は必死で看病をすることとなった。

まもなくして、旦那さんは亡くなった。

母は幼い双子を抱えて、

ようやく社会人になるかならないかの時期に、

俗にいう未亡人になった。

人生崖っぷちである。

そして、今現在まで深く根を張ることになるのだが、

祖父は、母が教員としてひとり立ちするまで、

幼い姉二人を無理やり母から奪った。

教員採用試験に受かるまでは我が子に会うな、

と母を突っぱねた。

そして双子は蝶よ花よと甘やかされ、

愛されて育った。

闘病中の夫を必死で支えた

甲斐もむなしく夫に先立たれ、

自分の社会的ポジションも定まらない中で、

我が子に会えないという状況は、

母に壮絶な痛みと、

凄まじい恨みと覚悟、

そしてストレスを与えた。

その後無事教員になり、

母は姉二人と共に生活できるようになったが、

ジジババに甘やかされた双子を

しっかりしつけなければ、という強迫観念から、

母の中にはいつのまにか、

アメ=ジジババ、ムチ=母という、

しつけの構造が出来上がっていた。

姉2人はいつも母に怒られ、反発していた。

今でも彼女たちと母は不仲である。

そんな中、ポヤンとした父に出会い、

やがて結婚し、私が産まれることになる。

…とまあここまではあくまで母談の話である。

私は4歳か5歳の小さいとき、寝る前のお話でたまに

聞かされたこの母の半生であるが、

正直爆弾投下というか、

寝る前にする話じゃねえだろと

心から思うのであるが、

過ぎてしまったことはしょうがない。

別角度で、姉からこの話を聞くと、

割と違っている。

教員採用試験に受かるまでは会わせない、

といったのは事実かもしれないが、

その後働き始めた母は、姉二人の子育ては

すべて祖母にまかせっきりにして、

双子たちとは週末に少し遊ぶ、

ぐらいのスタンスだったらしい。

冷静に考えて、手助けのない状態で

シングルマザーとして双子を育てていたら、

恐らく恋愛をする暇はない。

少なくともある程度双子から手が離れるまでは

そんな余裕はない、となるだろう。

母は悲劇のヒロインぶるのが得意なタイプの

人間である。実際の悲劇にもあってはいるが、

本当に悲劇を乗り越えた人間ほど過去を語らない。

彼女はことあるごとに語りまくっている。笑

思い出動かないこと山の如しなのである。

そして30になる前に私の父と結婚していて、

私を産んでいるのだから、

それなりに恋愛しているし、

そんな時間が作れた、ということだ。

姉から聞いた話だが、

姉が祖母に

「おばあちゃんって更年期障害とか

 そういうのなかったの?」

と聞いたことがあるらしい。

祖母は、

「あんたたち育てるので必死になってたら

 いつの間にか更年期が終わっていた」

と答えたらしい。

これは子育てを手伝った人間ではなく、

どちらかというと主体的に子育てをした人間の

言い方である。

姉はその後、

「確かに、うちら2人にとっての親は

 おばあちゃんたちで、お母さんは

 なんかお姉さん?みたいな感覚だった」

と語っている。

その後妹である私が産まれたわけだが、

私は母にとって、

ようやく得た「テンプレの家族」としての環境の中で

愛することのできる初めての存在だったのだろう。

姉の時は手をかけてやれなかったことや、

逆に祖母が担ってくれた手間のかかる育児、

そういったものを初めてすべて自分の手の中で

実行できたのである。

手放しで全ての愛を注ぎ、

重さや面倒くささも全て、

全方向のベクトルが私に向いた。

ここまで書いたが、きっと多くの人は、

なんだかんだ私の母は苦労人で、

経験値が高いんだろうな、と思うだろう。

皆さんが知るべき1つの真実は、

苦労人ということと、

徳が高い人ということは全く別であるということだ。

母は正直言ってすんごい性格が悪い。

周りの人間をハッピーにすることはあまりない。

アンハッピーにさせることが多い。

彼女は祖父のモラルハラスメントの

鎖をそのまま引き継いでいる。

北斗神拳かと思うぐらいに一子相伝である。

私は、小さい頃からとても気を遣って生きてきた。

特に母に対しては、怒らせないように、

機嫌を損ねないように、

母のために何をしたらいいか、

どう振る舞えばいいか、

一生懸命考える癖がついた。

自分のやりたいことや思うことを堂々と主張するより、

相手が喜ぶであろうことを口走るようになった。

たとえ話をしよう。

家族でTVを見ていて、

母の嫌いなタレントが出てきたとする。

一般のお母さんは

「お母さんこのタレント嫌いだわあ〜」

で終了だろう。

うちの母は、

「あんたこんなタレントが出るような

番組見るなんてバカなんじゃないの?!」

となぜかこちらを攻撃して来るのである。

想像してもらいたいのだが、

これが私の日常生活全て、

付き合う友達や、読む本や、寝る時間や、

進路のこと全てに適用されるのである。

必然的に肩身は狭くなり、

言いたいことは言えずに育った。

本当の自分を見つけて、

ようやく自由になるのは、

静岡で居場所を見つけてからの話だ。

じじのエピソードに続く。☟笑

じいちゃんが1回死んで生き返った話

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