おばあちゃんと言葉の話

最初に記しておくが、今回はほぼ写真がない。

面白いこともない上に長文である。

皆さんのために、というか

自分のために書いている。

ご容赦願いたい。

これはfacebookで以前に公開した事があるのだが、

今の私の、大事な人とのコミュニケーションに対する

考え方のベースになった経験がある。

言葉の話だ。

中3の時に父方の祖母が亡くなった。

最初は膠原病(こうげん病)という、

マイナーであまり知られていない病気

ではないかという疑いがあり、しばらくは皆、

仮だがその病気だと思っておばあちゃんと接していた。

膠原病はよくガンと混同され、難しい病気とされているらしい。

結局はおばあちゃんもガンであると後で判明したのだが。

私が中学2年から3年に上がる頃、

その年おばあちゃんは入院したり退院したりを繰り返していた。

でも見た目は元気そうで、

はやく治ったらいいなーと、

私は治ることが前提で、あっけらかんと考えていた。

というよりも、自分の身近な人間が亡くなるという感覚は

経験したことがなかったので、

なんだかんだ人って死なないだろうというか、

ああいう衝撃的な死というものはドラマや映画の中のものに過ぎない、

という感覚をまだ持っていたのだと思う。

ちなみにおばあちゃん家における

”おばあちゃん”という人の存在はでかかったから、

実家に帰っておじいちゃんだけだと何だか不安で、

手持ち無沙汰な感覚だったことを覚えている。

そんなおばあちゃんが入院してしばらくしたある日、

ふと思い立って、お見舞いに行くことにした。

1人で行く生まれて初めてのお見舞いだった。

近所のお花屋さんで花を買って、

チャリをこいで日赤についた。

迷いながら病室にたどり着いたけど、

おばあちゃんがいない。

あれ?と思って廊下をウロウロしていると、

おじいちゃんにばったり出くわした。

おじいちゃん曰く、病室が個室に変わったらしい。

案内された個室の中に恐る恐る入ると、

とても元気そうなおばあちゃんがいた。

お花が生花だから病室に置けなくて、

おじいちゃんがしばらく外に出ている間、

私にマシンガンのように喋っていた。笑

薬の影響で足が浮腫むのを、

おじいちゃんが心配そうにマッサージしてくれるけど、

「あぎゃんこと気休めだわね!(あんなもの効かないよ)」

と私に陰口を言えるほど元気だった。

私はすっかり安心したようで、

その日の帰り道の記憶はあまりない。

次の日の朝早く、

通勤通学の準備で私も父も母もバタバタしている中、

家の電話が鳴った。

「日赤から!心肺停止だって。急いで制服着て!親父は先に車で出るって!」

お父さんが焦っている姿を初めて見た。

日赤について、病室に駆け込んだ。

おばあちゃんの顔を見た。

既に意識は無くて、眠っているみたいに見えた。

おじいちゃんが遅れて来た。

先に家を出たのに、動揺していつもの道を間違えてしまったらしい。

ドラマでよく出てくる機械があった。

黒い画面に心音が緑色の線で

画面にピッピッピって出てくる救急モニターだ。

先生が処置をしている最中から

どんどん音は乱れていって、

緑の線はついにピーーーっといったきり動かなくなった。

先生が必死で心臓マッサージと電気マッサージをして蘇生を試みてくれたけど、

一通り処置しても、

もう望みはないみたいで、どうされますか、と私たちに聞かれた。

父さんが、

「親父、どうする。」

と聞いて、

おじいちゃんは、顔を手で覆って嗚咽を堪えながら、

「もういいです。」

と答えた。

みんな泣いていた。

お父さんが泣くところも、

おじいちゃんが泣くところも初めて見た。

私はやめないで、ともああもうダメなのか、とも

思うことすらできず、この状況がただただ受け入れられず、

呆然と涙を流しながら突っ立っていた。

おばあちゃんの身体から機械が外されていって、

おばあちゃんはただ横たわって寝ているだけになった。

不思議なことに、

この身体はおばあちゃんじゃない感じがした。

おばあちゃんの形だけど、違う感じ。

すごく変な感覚だった。

唇を大きい綿棒で濡らしてあげた。

さよならをした、という感覚はなかった。

それからの出来事はあっという間に過ぎていった。

お葬式も終わって、四十九日も終わって、

時が流れて私は高校に入り、

「おばあちゃんのこと」はそれで自然に一段落ついたように見えた。

ひとつだけおかしな点を除いてだ。

どう考えてもおばあちゃんはまだ生きている。

生きてるというより死んでない、の方が近いだろうか。

この感覚だった。

死んでいる、ということはあり得ない。

ただあの病室での体験も、お葬式も、夢ではない。

でも、おばあちゃんは死んでない。

この矛盾は一体何だ。

そのおかしな感覚を覚える度に、

そのうちに、なぜか私の脳内に、

おばあちゃんとの記憶がぽろぽろと出てくるようになった。

私が好きな梅の甘煮を毎年山ほど作ってくれた。

こんにゃくの作り方を教えてくれた。

ストーブの上でおせちの黒豆を煮るのを見せてくれながら、

ストーブに近づいたら危ないよという話を心配そうにしてくれた。

猫柄のかばんや人形を手作りしてくれた。

二階の窓からお喋りしながら一緒に布団をほした。

下手くそにお餅を丸める私に、ニコニコしながら丸め方を教えてくれた。

『私は愛されていた』

ということを初めて、

強烈に意識するようになった。

(「愛されている」という感覚をわからせてくれたのが

父や母ではなく、祖母だったというのは多少の皮肉ではあるが、笑)

そして同時に、それらの愛情を無意識に受けとるだけで、

返せていなかった、ということを強烈に後悔するようにもなった。

亡くなる前の日会いに行ったのに、なぜ伝えなかったのか。

愛情を返せなかったのか。

もちろん責めてもしょうがない。

このことを話した人からは、逆に、

前日会えてよかったじゃないかと言われることもある。

でもそんな考えは気休めにもならない。

決定的に”手遅れだ”という感覚。

自分の選択で後悔したものより何倍も悔やまれた。

そのあと大学に入り、

ようやく自分というものをはっきり形づくるようになって、

なぜか私は『言葉』というものへの意識が人一倍強くなった。

自分が好きとか大事だと思った時に、

そのまま言葉にすることにためらいがなくなった。

厳密にはためらいがないわけではないのだが、

「伝えずに死なれたら…?」

という恐怖が大きいので自然にそうなるのかもしれない。

誰かに何かを伝える時に無意識、ということがほぼなくなった。

例えばムカつく、とか死ね、というような攻撃的な言葉も

私の感覚的には命を削って言っている。

魂を込めて言っている。

本当に殺すつもりで死ね、と言うし、

人間として価値がない、

と心から思うから消えろ、と言う。

そこまで自分のエネルギーを削ったり

言葉の任を負うとものすごい業を背負うことになるので、

そういう言葉も滅多なことでは言わないようになった。

あとは肉親に普通であれば照れくさいであろう言葉を言えるとかだろうか。

私は親に普通に、愛してるよ、親としてね、と言える。

人間として好きとか尊敬する気持ちはクソほどもないので、

言われてもそんなに感動はなさそうだが。

(ほんと人間的に嫌いだしつけ上がるのでほぼ言わないが)

今伝えられても明日は無理かもしれない。

同じ後悔はしたくない。

大事なものや、好きなものに対する嗅覚が鋭くなった。

他の人は知らないけど、私は勝手に魂を込めている。愛を込めている。

そんな重さなんて知るかって人がほぼ全てで、

残念ながら口先を軽々しく使って生きている人たちが大半だ。

言葉と行動がちっとも一致しない人なんてザラにいる。

恋愛関係ならそういう相手にがっかりしたことありますーという女性なんて、

星の数ほどいるのではないだろうか。

でも、そういう中にも、

言葉の重さに気づいているフリをする人がちらほら、

(これは少々上級者なのでなかなか遊べる人ではある)

さらに、不思議なことにごく稀に、

本当に言葉の重さに気づいてくれる人がいる。

私が地元を出てよかった、

と思えるのは、多分そういう人に出会えたからだ。

そしてこれからもそういう人に出会う為に生きて行くのだろう。

祖父と、亡くなった祖母の結婚写真。

ばあちゃんだいすきだ。

おわり。

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