私のメイクの歴史をさらす②

☟前回までのお話はこちら

私のメイクの歴史をさらす①

大学入学

さて、月日は過ぎ、

私は大学に入学することになったが、

ここにあたって、かなり変わったのは

身の回りの大人たちからの対応であった。

”大人の仲間入りだから、

初めての化粧品をそろえましょうね”

という、今までの締め付けからはガラッと

一転した謎のスタンスで、

人生で初めて化粧下地とファンデーションを

ばあちゃんも母も買ってくれようとし、

私は小さいときからアトピーやアレルギーで、

肌が荒れやすい体質だったので、

FANCLでベースもファンデも買ってもらった。

FANCLといえばこれ

うれしかったのは事実だが、

母に対しては正直、

それまでに変な化粧品自分で買って

使わせるぐらいなら、

子供が興味を持った時点でいろいろ教えてやれよ、

何なんだこの年齢でいきなり区切る感は、

と内心思ったのは言うまでもない。笑

(まあそれは私のわがままなので別にいいのだが)

で、そこから、じゃあメイクのやり方教えます!!

ということは決して一切なく、笑

買ってもらっただけで、

あんましメイクの全体像はわからず、

若干もやもやとしたまま私は大学に入学した。

雑誌の光と闇

少しずつアイテムはそろってきているのに、

how to部分が欠けている自分にとって、

当時のファッション誌の付録などで

特集が組まれる、メイク系の別冊ものは

かなり情報が得られる、重宝するものであった。

ただ、そういったものも、

メイクを0から100まで過程を追って

説明してくれるものはなく、

”この春使いこなすのは「イエロー」

みたいな、初心者向けではなく

マンネリメイクに一石を投じる系の

テーマの決まったハイレベルな特集ばかりで、

辞書なしで英字新聞読んでます的な

背伸び感は否めなかった。

ちなみに、選ぶ雑誌によってもかなり差は

あるのであろうが、

右も左もわからない人間にも

やさちーくおちえてくれる

入門ものが分かりにくいのは

やはり今でも変わっていないと見える。

ただメイクには流行りすたりがあり、

一昔前のメイクは何ともダサいという

風潮があるため、下手にhow to本を

出しても、バイブルにならないのかもしれない。

少し脱線してしまったが、この大学入学時に、

メイクに必要な基本的アイテムが

ある程度手元にそろったことで、

メイクの大筋をなぞることが

私はようやくできるようになったわけである。

再び置き去りにされた眉

さて、大学生活に入ってからは

新たなアイテム、

”つけまつげ”、そして”アイライン”

に心血を注ぐようになった私は、

☝当時は鉄板でした

アイラインとまつ毛のコンビネーション技しか

目に入らなくなっていた。

まるで日本国民が、

真央ちゃんが4回転飛ぶかどうかに血眼になって

食いついていた時のようである。

お気づきのとおり、

眉毛は相変わらず置き去りである。

肌に関しては、正直若くて大したトラブルもなく、

寝不足のクマも寝りゃなおるし

気になるのは毛穴ぐらいかな…という

贅沢で傲慢な時代であった。笑

本当に遅ればせながら、

ギャルに仲間入りしたかった私は

まるでゲジゲジのようなつけまつげを求め

日夜ドラッグストアを徘徊し

(つけまは床に落ちてると寿命が縮むよね)、

カラコンも全盛期の時代だったので、

瞳の原寸なぞもはや不明な大きさの

外国人風のカラコンをつけ、

「アイラインは、太ければ太いほどいい」

という、みつをのような名言的ポリシーを持って、

目だけはとにかくリオのカーニバルのように

あでやかに極濃のメイクをしていた。笑

再度言うが、眉は置き去りにして、である。

ただ、その頃でもギリギリ私の美的感覚は

「眉と髪の毛の色は合わせるもの」

という基本的な合意は持ち合わせていたので、

髪をかなり明るく染めてからは

必然的に眉マスカラを使うようになり、

眉に対するテコ入れもある程度はするようになった。

これは今でも使用中

しかし、黒髪を貫くという謎のポリシーを持っていた

まだ大学一年ぐらいのときは、

カラコンの存在すら知らず、眉は書かず、

アイラインとまつ毛だけ謎に1人歩きして、

瞳は三白眼で謎な生き物として生きていたように思う。

美意識という化け物

女性の美に対する意識のうつりかわり

に対する周囲の反応や訳の分からなさというのは、

極端な例を挙げると、

「整形にはまっていく女性に対する

 理解不能具合(特に男性から)」

というのが特にわかりやすいかもしれない。

確かに共感しづらいけど、はまるのもわかる…

というのが一般的女性の見解という気がするが、

私の場合、つけまつげに対する感覚が

かなり顕著に変わったので、

それを書き出してみることにする。

感覚の推移としては、まず

「つけまつげをつけると目がでかくなる!」

      ↓

「つけまつげは大きければ大きいほどいい」

      ↓

「つけまつげつけないと逆に変」

      ↓

「つけまつげは自分の心の支え」

      ↓

「つけまつげけっこう目が疲れる」

      ↓

「つけまつげあんまりでかいと変かも」

      ↓

「つけまつげあんまり他人は見てないのか」

      ↓

「つけまつげ自体けっこう変だぞ」

      ↓

「さよならつけまつげ、ようこそ自まつげ」

      ↓

「やっぱり自まつげじゃ物足りない」

      ↓

「もう一回つけまつげしたい」

      ↓

「変に見えないつけまつげの追求」

というところまで推移していくのである。

まつエクに移行すればいいのだが、

私はあんまり体に合わないので今は

ハレの日の外出やお出かけのときだけ

目じりに小さいまつエクをつけている。

もうまつげは乳や尻のシリコンと同じく、

「でかけりゃ偽物でもなんでもいいんだよ」

という派閥と

「いくらでかくても偽物じゃダメでしょ」

という派閥があり、

皆人生のなかで両方の派閥を行き来するものだと

私は勝手に思っている。笑

☟次回に続く!!

私のメイクの歴史をさらす③

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