最近人が頻繁に死ぬので

イキテルッテナーンダロ

イキテルッテナーアニー

さて、ここ最近有名人の訃報の

ニュースを見聞きして、

皆さん衝撃を受けたり、

なぜなんだろう、

未来があんなに明るそうなのにとか、

鬱だったのか?とか、

そもそも死ぬことについて、とか

いろいろと考え始めている頃だろう。

かくいう私もその一人である。

生きることと死ぬことについては、

人間の最大のテーマだ。

だから、答えなんぞ記す気は毛頭ないということを

まずあらかじめここに書いておくぞ。笑

サムネはめちゃくちゃ上から目線だが、

「死」というものに対して

現代人はかなり距離を取ってしまっている。

身近ではなくなっているのは

医療や葬祭関係をのぞいて、

恐らく全員共通であろう。

まあ人がなかなか死なない時代になったのだ、

それも無理はない。

でも、人類全員が、遅かれ早かれ必ず死ぬ。

それは共通事項である。

常に考え続けて病んでしまう必要はないけど、

普段考えなさ過ぎて、

死に対する考えや恐怖心がゆがんでしまったり、

自分なりの答えが出ないまま不遇の死を遂げる前に、

こういう機会にみんなで一斉に

ちょっと死について考えてみようぜよ、

という訳で

そのためのヒントをポチポチとリンクで

貼っていくわ。是非ご覧あれ。

自分なりの死生観

さて、当たり前の話をするようだが、

私は私の視点でしか物事を語れない。

おぬしらがどれだけ苦しい思いを

しようと、自分以外の誰かにそれが完璧に

分かってもらえることは100%ない。

そしてそのまた逆も然りである。

人のことはわからん。

だが、世の中にはそこでわからんから放置して、

他者も他者の痛みも捨て置ける人種と、

そうではなく、他者も痛みについても

きちんと考えてしまう人種が存在する。

そういう人たちの多くは

過去に自分が傷ついた経験があったり、

感受性が豊かな人たちである。

私は性善説・性悪説どちらの立場にも

はっきりとは立たないが、

そういう壊れやすいけれど

人の痛みがわかる人たちを全力で守りたい。

そう思っている。

さて、人が死について、人生で一番初めに考える

きっかけになるのは、

まずは身近な人の死であろう。

(参照※初めて「死」を意識したときの話)

恐らく祖父や祖母の死に直面して初めて、

死ぬって何だろう、などと考えるはずだ。

その次に、まだ若い同級生の突然死である。

多くて大体1学年に1人、

3学年で1人ぐらいは、

突然死や自殺、事故に巻き込まれて

亡くなった、という訃報を聞いたことがある人も

多いのではないか?

かくいう私も、

同級生が心臓発作で無くなり、

高校の時だったが、同級生のクソどもが

サボりたいがためにお葬式に行く、

という話になっていて、私がお前らの心臓を

ひねりつぶしてやろうかと思ったことがある。

そして長い人生の中で、

親兄弟の死や、親戚の死、恋人の死などが

イレギュラーに現れ、

そこからは多くの人がダメージを受ける。

本題とはそれるが、私は

昔の男がひき逃げに遭い、亡くなったことがある。

死ねばみんないい人みたいに言われる、

というのが通説だが、

正直自分を傷つけた人の死に関しては

何とも思わない、というパターンもある。

(参照※昔の男が亡くなった

多くの人は、そういった身近な人の死に

直面してダメージを受けると、

死生観を改めて考える、というよりかは

ショック状態から抜ける、

というほうにシフトしがちだ。

自分も死にたい、というよりかは、

他人の死を受け入れる、というところに

まず集中する。

ただ、すでに死にたいと常日頃思っていた人の

身近な人間が亡くなったとき、

その死は大きな引き金になることがある。

本当に実行している人たち

私も常日頃から、カジュアルに死にたいと思っている。

ただ、それは「生きづらさ」からくるもので、

生きているのが苦しい→死のう

というアホっぽい方向性である。

(参照※出家したらどうなる?

生きるのが苦しい=死

というのは安易すぎる図式である

ということだけは皆さんに力強く言っておきたい。

生きることが苦しいとき、

本来選択肢は死の他にいくつかある。

1つ目は、苦しくない生き方に変えること、

2つ目は、苦しいのを我慢して生き続けること、

そして3つ目、最後の選択肢として死ぬ、

これである。

死にたいと安易に思ったとき、

「生きるのがしんどい」

にプラスして、

「全部なかったことにしたい」

「リセットしたい」

という付加要素があるから人は死にたい、

とカジュアルに思うのである。

さて、ここから少しだけ

現実を見ることができるサイトを紹介する。

日本行方不明者捜索・支援協会

http://www.mps.or.jp/mp_list/index_3.cgi

これは国内で行方不明になった人たちの

情報を掲載して、

安否の情報を呼びかける非営利団体のサイトだ。

見ていただければわかるが、

「ご協力ありがとうございました」

という言葉が何を示すのかはご想像にお任せする。

自分の意志で行方をくらませたのと、

誰かにさらわれた可能性、両方あるが、

自分の意志で消えていった人たちの中で、

自殺したいと思った人たちがどんな風になるのか。

直でリンクを貼れないので、

見てみたい人は自己責任で

「樹海のおとしもの」

と検索してみてほしい。

富士の樹海で自殺をした人たちの

残留物や、亡くなって時間がたっているところの

写真など、(うわあ)と思う写真がたくさんある。

「本物の死体」の写真や動画がもうすでに

コンテンツ化してしまっている現代では、

死体の写真などを見て

自分のグロ耐性を確かめたり、

刺激を求めてポッカキットなどの

海外の悲惨なニュースのまとめサイト

を見る人も多いだろうが、

日本国内のことのほうが身近に感じられるはずだ。

死体や処刑が見世物だったのは

全世界共通の歴史であり、

人が死に魅かれることは私は否定しない。

プライバシーの観点がどこまでこれから

発展するかは不明だが。

死ぬことは悪いことなのか?

さて、今回の命題ともいえるこれ、

自ら死を選ぶのは本当に悪いことか?

という問いである。

芸能人の自殺から、

身内の死と同じようにショックを受け、

回復をしないといけないほどにダメージを受ける

人間はそう多くない。

後追い自殺をする熱烈なファンぐらいである。

大抵の人は驚き、

なぜ死んだのか、本人なりの理由を

勝手におもんぱかり、

悲しいというよりも、”存在がなくなった”

という重みを複雑な気持ちで受け止めるだけだ。

そして私のようにこうやって勝手に

自死について考えだすのである。

宗教的に、世界的にも大きな宗教の

それぞれで共通して、基本的に

「自殺はよくないこと」

とされている。

「自殺をすると天国に行けない」

「自殺をすると魂が成仏しない」

などとよく言われている。

恐らく皆さんの深層心理の中に

「自殺はよくない事だ」

という刷り込みが少なからずある。

そして、よくドラマのワンシーンや、

実際の危機一髪の現場で見たことが

あるかもしれないが、

「車にひかれそうになった子供を助ける」

「橋から落ちようとしている人を止める」

「ホームに落ちた酔っ払いを助ける」

という”本能的に他者を助ける”という

動物的な反射を誰しもが持っている。

目の前で誰かが心臓発作を起こして倒れたら、

大抵は助けようと救急車を呼んだり、

心臓マッサージをするだろう。

そこに選択の余地はなく、

「問答無用で助ける」のが

誰にとっても動物的に正解なはずだ。

しかし、自分の死を考えたとき

どうだろうか。

急にわからなくならないだろうか?

「誰に何と言われようと、私はもう死ぬ」

「死ぬのだって選択の権利だ、邪魔するな」

という、死を自己の選択の権利として考える

マインドが突如として現れるのである。

この問いをストーリーに沿って

深く考えさせてくれる、

そして「自殺は悪いことなのか?」

という問いに対してかなり面白い答えを

出してくれているのが、

この『バビロン』というアニメである。

アマゾンプライムで無料で視聴できる。

あまりネタバレしないように書くが、

この物語の中では

「自殺はいいこと?悪いこと?」

という問いは、詰めに詰められ、なんと、

「良い」とは何か?

「悪い」とは何か?

というアリストテレスもたまげる

超絶哲学的問いまで発展し、

ちゃんと答えが出ている。

好き嫌いや賛否はわかれるだろうが、

このヘビーなテーマをしっかりと

考えさせてくれる良作だと私は思う。

次元の話

さて、ここまではきっかけになりそうなものを

チクチクと語りながら挙げてきたが、

ここからはぶっ飛んだ話になるので覚悟あれ。

都市伝説の中で、

人間はサルから進化したのではなく、

かつて地球にやってきた高度生命体によって

作られたのだ、

というものをご存じだろうか?

2ちゃんねるのまとめで、

瞑想や幽体離脱の練習をしていたら、

地球人以外の生命がいる場所に

飛んで行ってしまって、

そこからその高次元生命体に

地球の歴史を聞けた、という内容のものがある。

http://world-fusigi.net/archives/7508842.html

私はこの話がめちゃくちゃ好きで、

定期的に読んでいるのであるが、

もし人間が今の状態が

「退化」した状態であって、

本来はもっと高次元なことができていて、

そしてもしこれから再びその高次元に

近づくことができるとしたら。

なんだそりゃーと思うだろうが、

ハリウッドの映画で、すでに実写化されている。

人間が脳の機能の100%を使えるようになったら

どうなるのか?という作品

このインターステラーは、

今現在「TENET」という最新作が公開されている

監督の過去作である。

この作品は私が最近見たもののなかで

マジでピカイチであった。

こっからネタバレになるぜ。

主人公が荒廃してきている地球を救うために、

地球に子供を残したまま宇宙に旅立つが、

他の移住可能な星を探してさまよう中で

裏切りにあい、光速の世界で宇宙に放り出され

地球ではいたずらに時間が過ぎてしまう。

そして絶望的な状況になったとき、

謎の空間に入るのである。

それは、過去から現在の

時間軸のすべてがあるところで、

そこには過去から現在の

自宅の娘の部屋がたくさん現れたのである。

そこで主人公が何とか過去の娘にコンタクトを

取ろうと試みるのであるが、

その方法はなんと、

「愛」によるものだった。

という文字に起こすと

笑ってしまうシナリオなのだが、

こんな私の下手くそな説明を読む前に

早くリンクをクリックして見始めてくれ!!

と言いたくなるほど、

全人類におすすめの映画である。

いままでさんざん馬鹿にされてきた精神世界が、

ようやく日の目を見たような、

私はそんな気持ちになった。

「気持ち」や「想い」のパワーは半端じゃない。

アニメのまどか☆マギカにもヒントがたくさんあるが、

これからそういうことが少しずつ明らかになって、

もっと認知されるようになると

私はひそかに思っている。

非常に長くなったが、

つまりはどういうこと?

というと、これからの未来で、

こういう精神世界の考え方が

メジャーになっていけば、

「今苦しんでいること」や

「生死の選択の良しあしを考える」

という次元を超えて、

新しい感覚になることができるかもしれない、

ということだ。

生死という概念そのものが

ガラッと変わる可能性がある。

だからそれまで生きて待とう、

とか、そういう世界を知りましょう、

と勧めているわけではない。

宇宙の大きさを考えたら自分の悩みなんて!

といったところで、

今現在の死にたさは1ミリも消えない。

ただ、どういう選択をするにせよ、

自分なりの答えや推測は出しておきたい。

そして、みんなのつらさや

苦しい思いが、精神世界の時代になって、

リンクできたり、和らげることが

できるようになったら、

今つらい人たちを全員救える。

そういう可能性は0%じゃないということを

書いて、ここで終わりたいと思う。

終わり!!

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